概 念 罪                        

 

序章


 よどんだ雲を焦点の合わない瞳で眺めている。憂いに、というよ
 
りはなにも表情の浮かばないその横顔からは、近づくものを拒むか
 
のような雰囲気が放たれている。両手を胸の前で固く引き締めるそ
 
の姿からは世の無常さを噛み絞めているようで、届かぬ祈りをただ
 
一心に込めて、ともすれば呪いに近い強い感情がにじんでいた。そ
 
の様子を前に、声をかけることすらためらわれて、伸ばした腕を力
 
なく下ろした。
 
 風が吹きすさぶ屋上で遠くから学生たちの笑い声が聞こえる。し
 
かし、瑞理はそれすらも耳に入らぬ様子で遠くの一点を見つめたま
 
ま微動だにしない。セミロングの長髪が風にあおられ、所在なくあ
 
てを彷徨う。
 
 それから何分経っただろうか。それはとても長い時間だった気も
 
するし、十数秒だった気もする。一瞬だけこちらを一瞥するような
 
瑞理の視線を感じ、俺の意識は水面下から浮かび上がってきた。そ
 
れを期に、ようやく声を絞り出すことに成功する。
 
「……死ぬつもりなのか」
 
 すこしだけ注意がこちらに向いた。まるで機械仕掛けのようにぎ
 
こちない動作で肩越しに俺に目線を送る。それでも返される言葉は
 
なく、間を沈黙が埋め尽くす。
 
 会話が続かない状況で返答のない反応に苛立ち、先日の諍《いさ
 
か》いを思い出す。内容自体はたいしたことはなかった。ただ、お
 
互いの関係にも慣れてきて、徐々に相手の細かい動作、仕種につい
 
て目に付くところが顕在化してきただけのことだ。
 
 俺はそれによって突如発生したその苛立ちの矛先を、自分の胸の
 
うちから事の発端である瑞理に変えた。考えなかったわけではなかっ
 
た。どうしてこのような場面にいるのかを。生と死の淵に立つ彼女
 
の境遇を。 「死のうと思うなら死ねばいい」
 
 その言葉を聞いたとき、瑞理の反応が劇的に変わった。表情の浮
 
かばなかった顔に影が落ち、胸の前で固く握られた両手が紐のよう
 
に両脇に力なく垂れ下がる。目線を灰色に染まった空へと戻し、頭
 
上を振り仰いだ。
 
 その脱力した様子を見て、怖気が走った。止めなければ、と。こ
 
れは諦観だ。自分の行く末を諦めた者が抱くものだ。
 
 抑止の声を放った。謝罪の念も送った。あらん限りの声で、遠ざ
 
かっていく幻像《イメージ》を引き止めるために。だが、声は枯れ
 
た枝々に吹き抜けていくばかりで一向に届かない。 瑞理は薄く唇
 
を開き、なにかを呟いた。長い単語のようなものではない。それか
 
ら、歩を進め、コンクリートの淵に右足をかけたその刹那、ゆっく
 
りと傾いていく彼女の姿を呆然とした目で追った。
 
 獣の吠えるような風の音のなかで、遠くから鈍い音が聞こえた気
 
がした。

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