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†Novel

【雲間の日差し】


 窓の外では雪が降っていた。もう二月も暮れだというのに、本当にご苦労なことだとおもう。すぐそこに暖かさがやってこようとしているのに、冬はどうにも最後まで悪あがきをしたいらしい。おかげでこちらが迷惑をこうむるはめになってしまうのだ。

 シャツに腕をとおし、スカートのホックをとめ、セーターを着こむ。赤いネクタイをむすび、その上にありふれたデザインの上着を羽織り、ボタンをとめ、ピンク色のマフラーに手を伸ばし……かけてやめ、引き出しの奥から黒色の地味なマフラーを引っ張り出し、くるくると二、三回ほど首にまきつけると口元がすっぽりと覆われる。仕上げに白い手袋をはめ、冬場の重装備が完成する。

 時間があまりない。朝食はあきらめ、そのまま登校の準備をつづける。とはいったものの、昨晩寝るまえに確認までおえているのでとくに問題はない。
 ソファの足元に立てかけられた革製のうすいカバン――中身の大部分は学校の机のなかに置いてある――の持ち手の穴部分を左肩に通し、玄関でローファーを履く。すこし錆びつき、塗装がはげた取っ手を押しながら扉をひらいた瞬間、外気がまとわりつき、肌を刺すような痛みを覚える。寒暖差が急激に変化するこの瞬間が嫌いでたまらない。

 どんよりとブルーグレーによどんだ空をながめ、今日一日はまともな天候に見舞われそうにないことを確信する。世間では雪が愛の結晶などと揶揄されるが、なぜそんなふうに思えるのだろう。雪なんてただのゴミが凍結しただけの話であって、こじつけもはなはだしい。こうやって天候を運命などと俗っぽい表現とつなげる世の神経がどうにも解せない。

『てんびん座のアナタは運命的な出会いがあるかも!?』

 雑誌の巻末のスペースに出会いや幸運をもとめようとするクラスメイト。それが自分にたいして肯定的でさえあれば、どんなに非科学的なものでも嬉々として受け入れるのだろう。

(ちょっと寒いな……)

 駅までは徒歩で十分ほど。いつもなら特別なにもおもうことはない。それが、今日はやけに遠く感じられる。

(寒さで足どりが効かないのか、それとも……それとも?)

 理由なんてない。そう、いつもとおんなじ通学路であって、なにもかわらない日常。

 自動車はすぐそばの道路を目まぐるしくとおりすぎる。スーツを着込んだ中年の男性たちは腕時計とにらめっこ。小学生たちは手をあげて横断歩道をわたり、横で黄色い旗をかかげながら誘導するおばさんたち。赤いウィンドブレーカーとヘルメットをかぶった男性が、バイクのハンドルを指でコツコツとたたいて信号がかわるのをまっている。

 青くひかる男性のシルエットが点滅しだした。いまだ歩道から十メートルほどはなれた場所にたちどまっていた私はいそいで歩道をわたろうとする。明滅をくりかえしていた信号が直立する男性のシルエットにかわり、そのすこしまえに道路の反対側に引きあげていたおばさんたちが、クスクスとふくみ笑いをもらしている。それを尻目に、待っていましたといわんばかりの勢いで、列をなした自動車が目のまえをかけぬけていく。生じた風でゆられた私の髪が視界の左半分をおおう。

 そこでふとおもった。ここで足に力をこめて道路に飛びこめばどうなるだろうか。遠方からせまってくる白い軽自動車に目をむける。
 甲高いブレーキ音をひびかせる車体にひきずられ、四肢がとび、臓器をまき散らす。赤くにごった液体がコンクリートを放射状に染めあげ、それをみた歩道のおばさんたちは金切り声をあげる。車を運転していたさえないおじさんが顔をひきつらせて扉から転がりおちる。次々と車内からひとがでてきて、あたりが怒号と喧騒につつまれる。そんな様子を想像してみた。

 ヒヨコの鳴き声のような電子音声が耳にはいってきた。おばさんたちが微笑みながら手まねきをして私をいざなう。機械的に足をうごかし、傍らをとおりすぎた。携帯電話を取りだし時刻を確認する。かなり急がなければいつもの発射時刻に間に合わないだろう。ため息をひとつついて走りだす。

 紺色のセーターを着た女子高生が携帯電話の画面をみながら文字をひたすら打ちこんでいる。自転車にのった若い茶髪の男性に追い抜かれた。靴音を聞いた黒色のスーツ姿のおじさんが怪訝そうに後ろを振りむく。

 実行しようとおもえばそれはすぐにでも事をなせる。それでもこうやって毎日をつつがなく暮らそうとするのはどうしてだ。死にたければいつでも死ぬことはできる。毒、衝突、刃物、方法などいくらでもまわりに転がっている。
 小突きあい、ゲームの話に興じる学ラン姿の高校生が視界にはいる。ゴミ袋を片手に夫の愚痴をこぼす主婦が口に手を当て、声をあらげて笑っている。このひとたちは、目の前にある幸せを享受している。それがすべてであるかのように、だ。

 店舗がいくつか並び、その最後にはクリーニング屋が曲がり角に面して店をかまえている。曲がり角を右手に曲がると、枯れ葉が申しわけ程度にくっついた木がみえてくる。そこが駅のロータリーになり、客を待つタクシーが列をなしてならんでいる。それはいつもの風景。階段をかけ上がり改札口を抜ける。発車をしらせるベル音を聞き流しながら、赤い車体のなかに自らをすべりこませる。そのすぐあとにぎこちない仕草で扉が閉じていき、空気が噴きだすような音とともに、電車がうごきだす。

 ……幸せ? これは幸せなのか? つつがない毎日をくらせることが。なんの刺激もない毎日に渇望を秘めながら。それでもだれもが願っている。今日もいつもどおりすごせますように、と。私だって。

(……私だって)

 電車は不規則に上下にゆられながら、レールの上をかけぬけていく。乱れた呼気をととのえながら、通りすぎゆく町並みを眼下に見下ろす形になる。扉に体重をあずけながら、ガラスに顔をちかづけると、視界が結露で白くそまっていく。
 なんの気もなしにポケットに手をいれる。爪先にかたい感触をかんじる。お気に入りのパステルカラーの携帯電話。それを手に取った瞬間、ちくり、と胸に針が刺さったように痛む。画面をひらき、キーを数回押して、メールボックスを開く。

『好きなんだ。お願い、俺はキミなしじゃ生きていけない』

 文面には差出人の名前とたった一行の味気ないテキストメッセージ。たったそれだけなのに、どうしてこんなにも気が狂いそうに胸がしめつけられるのだろう。
 電車の速度がゆるまり、男性にしては高めの声で、つぎの駅をしらせる放送が車内にひびく。数人が席をたち、あいた席は競りあうようにしてあっという間にうまる。

 ふといだいた思いは気まぐれだったのかもしれない。それとも、抑圧されていた気持ちがいまになってから露呈したのだろうか。理由はわからない。私は気がついたら、駅のホームにむかって片足を下ろす途中だった。

               ◇◆

 駅付近のひとの姿はまばらだった。最寄の駅から数駅はなれた隣町。といっても、車内からながめていただけで訪れることもなく、降りたのははじめてだった。自分で自分の行動が不可解に感じながらも、遠めにみえる河川敷にむかってふらふらと歩きだす。

 行く手には数分に一台という割合で車が通りすぎていく。どうせ無駄だとはおもうが、左右から車がこないかどうかたしかめてから横断する。これまでのコンクリートから、砂利のようなもので敷きつめられた歩道にかわり、眼下を見下ろせばさらさらとながれていく川がある。手近にあった手すりにふれると、手袋越しに冷たさがつたわる。気づけば、先刻のちらつく程度だった雪が本格的に降ってきそうな気配があった。

 耳元で「愛してる」とささやかれる。本当は気づいていた。それが刹那のあいだだけむけられる、自分の気持ちが確固たるものだと、私に信頼させようとする都合のいい言葉だと。壇上のペテン師が観客にむけるトリックと相違ないことなど。しかし、それでも信じたかった自分がいた。私が寄りかかれる存在がそこにいてくれる、ということを疑いたくなかった。
 今は枯れ木と化している桜の木。あたたかくなればこのあたりは近所のひとたちで賑わい、シートを広げ、喧騒につつまれるにちがいない。それが一過性のものでしかないとわかっていても、ひとはそこに感動という情動的な要素を持ちこみ、楽しもうとする。限られた時間を享受しようとする。

 私も同じなのだろうか。こんな関係が長続きしないことなど、延々と思案をめぐらせ続けたことだった。自分があのひとの眼中にはいっていないことは、以前から気づいていた。だが、ウソでも私という存在が認められている瞬間におぼれてしまっていた。「好きだ」、その言葉に。

 右手の手袋を取り、手のひらを水平に固定する。目の前を通りすぎた雪が手のひらの上に降り、しばらくすると形を変えていき、数秒後にはもとの形を残していなかった。
 わけもなく嗚咽が漏れはじめた。口元をおおった手からは震えが伝わる。短く息を吸いこむたび、涙が路面に落ちていく。

 なにも気づかずに振る舞えたならどれほど幸せだったろう。しかし、私はもう地に降り立ち、見上げてしまった。その本心を。そして自分という形がくずれていくことにもわかってしまっていたのだ。それなのに、華々しい夢にすがりつづけていた。雪は積もらなければその存在も気にとめられることもないのだ。

 別れよう。そうおもった。不安でたまらないかもしれない。もしかしたら、言いようもないさびしさに襲われて部屋の片隅で涙をこぼすかもしれない。それでも、『今』という有限な時間を失うわけにはいかないんだとおもう。
 二月の半ばもすぎた降雪だ。午後には雪もやんで明日には降った痕跡すら残らないにちがいない。私もいつか悔やむことなく、この現状をかえりみることができるのだろうか。
 震えた手でポケットから携帯を取り出し、送信トレイに保存されていたデータを再生する。

「――別れたい、なんていいません。もう、会うこともないだろうから。あなたからの言葉はいつでも私を迷わせるから。さようなら。せめて身体には気をつけて」

 送信ボタンを押したあとの送信中画面が永遠ともおもえた。今からアドレスをかえて、やることはいくつかある。それでもこれから有意義なものとなるにちがいない。そう、信じなければ今にもくずれ落ちそうだった。

 雲間から差し込んだ日光におもわず目をつぶった。――携帯の画面には送信完了をしめす画像が表示されていた。

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