邂逅の果てに トップページ

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【止まった針】



 私と彼には軋轢があって溝があって壁が隔たる。

 けれどどうしても離れられなくて、私は暗闇で彼を探してしまう。

 まどろむような時間を過ごしながら私は何度も思う。


 雨の中、滝のような豪雨に身を当てられて橋の下に逃げてきた。周囲には何も植えられていない田園風景が広がって薄暗い灰色の視界が開けている。春に差し掛かったとはいえ、まだ朝方は冷える日も続く。水に濡れたままだと風邪も引いてしまうかもしれない。天気予報では昼から晴れると言っていたのに、曇り空からいっこうに天候は変化せず、ついには大泣きとなってしまった。
 私は今の状態を悔いることはないけど、雨が降ったことについては残念な気持ちになる。隣に伸びていた紺色のニットの袖をつまみ、何度か軽く引く。気を引くためかもしれないし、ただ手が何かを掴みたかった衝動に駆られただけかもしれない。
 私は「寒いね」とどんよりと曇った灰色の空を眺めて囁く。自分より背の高い彼は一度視線を下ろした後、私と同じ空を見つめて「うん」と同意する。その顔はどこか困ったようで眉を曇らせていた。
 彼の口振りはいつも端的で真っ直ぐだ。それなのに、どこか自信なさげに葉で作った小舟のように揺れている。目的地は分かっているのに、不安定でいつしか流れに呑まれそうになる。
 私も話すのは苦手な方だ。気の利いたことを言えればいいのに、いつも問われたことに対する回答しかできない。だから、私たちの会話はいつも何か現状を確認するような響きを帯びていた。相手がまだここにいることを確認するために私たちは短い言葉を交わし合う。
 彼は右手の拳を額に乗せながら肩を落としながら言う。「せっかく出かけたのにね」。私は「ホントに。久しぶりに会えたのに」と忌まわしげな視線を空に送る。
 彼とは二ヶ月ぶりに会った。前はたしかショッピングモールで買い物に出掛けたのが最後だったように思う。会って、話して、食事をして、それだけだった。
 周囲からは付き合っている仲だというのにそんな関係は冷たい、冷めてる、ときっと言われるだろう。普通なら毎週、毎日会っていたいと思うのが恋仲と例えられる所以らしい。そうはいっても、互いに都合がつかないときもあるのだし、遠くにいるわけでもない。だから、何となく会いたくなったら会えばいいと互いに思っており、最初からこんな頻度だった。無理に会う必要もない、というのが彼の見解だ。私も変に気を使わなくていいのでこれくらいの距離感で満足していた。
 けれども、そんな状態で丸二年が経っていた。出会った当初から何の進展もない関係性はたしかにどうなのか、と自分でも思えるようになり、将来のことを考えると一抹の不安を覚える。
 ――このままでいいんだろうか。
 月日を経るにつれ、ちりちりと焦げるような逸る気持ちに襲われる。
 彼は「これはしばらくここで足止めだなぁ」とため息をつく。「そうみたいね。早く止んでくれないかな」。私は彼の諦観する横顔をちらりと一瞥し、晴れ模様となるように雨空に向かって祈りを送る。
 また、沈黙が訪れた。
 黙した雰囲気が重たいわけではない。それどころか雨音に閉ざされる静寂した空間はどこか安心感すら覚える。
 雨音というのは不思議なものだった。傘を差して歩いているとき、こうして雨宿りをしているとき、私たちという空間を周囲から隔絶するように鳴り続ける。ぽつんと、自分が今立っている場所が切り離されたような、そんな不思議な感覚を味わえるのが昔から好きだった。
 彼はそんな私の好きな雨音と似たような雰囲気をまとっている。出会った当初もそんな感じだった。

 私たちが会ったのは友人に無理矢理連れられた合コンの場。嫌だ嫌だと言っていたのに、最後は開催日に家に押し掛けてまで連れられた。ぐったりと重苦しい胸のつっかえが始終取れないまま出席した。周囲の妙な高揚感、慣れない男性との会話は自分を異性のひとりとしてしか認識しておらず、ぎらつくような雰囲気が怖かった。
 どうにか体裁を取り繕いながら、あいまいに笑って過ごし続けて、終了時間を待っていた。もちろん二次会など願い下げだ。一刻も早くここから逃げ出したかったという気持ちが強かった。
 そうやって対面の男性たちから目線を外していると、同じように対角線の位置に座っていたひとりの男性と目があった。一見して物静かな外見であり、弱ったような表情を浮かべていた。彼もこちらの表情から何かを読み取ったのか、苦々しい笑みを浮かべて微笑んだ。おおよそ、この場にそぐわない大人しい性格のようだった。
 どこでも自分と同じような立場もいるんだな、と思うとすこし気が楽になった。
 それから一時間ほどが経過し、ラストオーダーの時間となった。それを期に席替えを行い、男女が入り交じるように席に着く。自然とそれまで会話が盛り上がっていたグループ、または一組で席に座し、位置取りが決まる。
 どうやら先ほどの彼と私は余り物として処理されたようで、席の端で互いに向かい合って座ることになった。
 先ほどのことがあったとはいえ、共通の話題も見つからないので押し黙っていた。彼も声をかけずになぜかグラスの氷をストローで掻き混ぜ続けていた。
 その状態で数分が経過し、さすがに気になってきた。「何してるの?」問うた声にはすこし困惑したものが混じった。「いや、何話していいかわかんなくて」と彼は依然としてグラスの氷に目線を落としたまま手持ち無沙汰さを氷にぶつけてそう答えた。
 あまりに想像通りの答えに私は逆に噴き出し、怪訝そうな視線を手のひらで隠れるようにして制した。それからテーブルに両肘をついて手を組んで、そこに顎を載せてじっと対面の彼がグラスをかき混ぜ続けているのを眺めていた。隣で話が盛り上がっているのか、手を打ち鳴らしたり、降って湧いたような笑い声が上げられている中だったが、意識して耳に入ってくることはなかった。カラン、とガラスと氷がぶつかる澄んだ音が耳に残響していた。

 そんな出会い方だったから、友人たちも私たちが付き合っていることも知らないだろう。付き合っているとは表向きだけであって、結局たまに会って話す程度の仲でしかないのだが。
 出会ってからその付き合い方を彼は崩すことはなかった。デートとはよくいったものだが、キスはおろか、手も繋いだことも今までなかった。
 世間でいわれるプラトニックな関係、というのとはまた違う気がする。純愛という考え方が、男女という一般的な関係から無理矢理に引き剥がそうとしている気がして好きではなかった。
 男女という関係でしかないのに、何も変わることはないのに、薄く引き延ばして線引きをして、どうにか綺麗な形に仕上げようと必死に塗り固めてる。人形の瞳のように人工的な感じがして嫌だった。
 それに私たちはただ互いに踏み込めずに、何を話していいかわからず、それでも何となく一緒にいて心地よい空間を求めて側にいたに過ぎない。長い時間離れていても何となく思い出してきて、その求める気持ちが強くなってくる。
 一度会えばまた離れて、そしてまた会いたくなる。そんな時間が長らく続いただけだったのだと思う。

 雨音は未だ緩む気配を見せない。
 河川の水量が先ほどよりも増しているようにも見えた。短い間だというのにかなりの雨量だった。濁った水が勢いを伴って流れていく。ここの川は広くないので大雨で氾濫しそうになることがたびたびあった。
 すこし肌寒い気持ちを覚えて私は身震いした。横殴りに降っている雨が霧雨状に降りかかってくるため右の袖が濡れていた。自分の身を抱くようにして腕を組む。
 「寒い?」彼の見下ろした視線が心配そうに細められている。私は素直に「うん、ちょっと」と答える。
 恐らく隣の彼も薄寒い思いをしているのではないかと思う。彼も寒さには強い方ではなかった。
 ぽつりと漏れるように交わされる会話。何度となく訪れる静寂。雨音に閉ざされた環境の中で私たちは何かを黙って待ち受けているかのようにも思えた。
 それは雨が止むことだったのかもしれない。
 遠くの道路からクラクションが鳴って車が通り過ぎていくだけでも、踏切から思い出したように警笛音が聞こえてもよかった。
 ともすれば、互いの携帯電話から着信があったら。
 もしかしたら、冷たくなった手を彼が握ってくれても何かが変わったのかもしれない。
 それでも、その何かが訪れることはないまま時間が過ぎていく。

 私たちは何かを契機として待ち続けている。
 今を脱するために、どんなことでも、こじつけじみた理由となるものが欲しかった。
 二人の長針と短針は今頃どのあたりにいるのだろう。
 私たちが出会ったそのときから時計の針は止まってばかり。
 きっかけもなく勇気もなく、何かに、誰かが変えてくれることを祈ったまま、冷えた空気に身を震わせて、私たちは短い言葉のやりとりを続けていく。そして、時が経つのをひたすらに待ち続ける。
「止まないね」
「止まないねぇ」
 交わされた言葉には意味はなく、獣の鳴き声のような雨音の中に溶けていく。




 私と彼には軋轢があって溝があって壁が隔たる。

 けれどどうしても離れられなくて、私は暗闇で彼を探してしまう。

 まどろむような時間を過ごしながら私は何度も思う。


 ――私たちの針は止まってしまったんだな、って。

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