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【時間の架け橋】


 歩道橋。
 言わずと知れた道路をまたいで歩行者の通路とするもの。
 車は橋の下を通り、人は車の上を通る。車通りの多い場合によくかけられる陸の橋。
 道すがらにいつも見かけるその橋を、俺はいつものように階段を上がり、手すりに手をかけ、見上げながら上る。
 人気のほどはあまり芳しくない。わざわざ、道路を渡るだけのために上に上がり、下に下る、という動作がとても煩わしいのだろう。
 俺も十数メートル向こうの信号が俺が来ることを見越して青信号を点滅させなければ渡っていなかったかもしれない。もっとも、個人を判別して道路の通行を妨げるような横断歩道があれば、そいつは嫁いできた嫁に対して細かいことを要求する姑か、日々小言と部下の意地悪が楽しみな上司にも似た思考を持ったやつに違いない。性別は判然としていないが。それ以前に人間ですらないのだが。
 思うに、この橋を利用するものは、信号無視をしでかさない生真面目なやつか、それともよっぽどの変わり者か、その手のたぐいの連中なのだろう。
 そんなことを思いながら運動不足気味の自分の身体を叱咤し、それでも年甲斐に見合うように階段を一段抜かしで駆け上がる。
 そして一番上から三番目ほどの段差に左足を乗せたときに視界の隅に少女の姿を捉えた。セミロングの長髪を風に揺らしながら柵にもたれる様はなかなか絵になっていた。
 少女を視界の片隅に入れながら最後の段に向けて足を踏み出したとき、この階段は奇数だということがわかった。同じ要領でもう一度左足を踏み出したら空を切ったからだ。宙に浮くように踏み込んだ足のやり場に困り、結果、想像以上に大きな音を立てながら足を振り下ろすことになってしまった。
 もちろん俺にも人並みの羞恥心というものを心得ている。すぐさま何事もなかったかのように右足を引き戻した。
 それから、早く帰らなければバラエティ番組の録画を取り逃すことになってしまう。今晩のおかずは大好きなハンバーグなのだ。そんなことを立ち振る舞いから察することができるように、少女の前をそそくさと早足で立ち去ろうとした。
 そうしたら、今日びの若者たちなど安価なファミレスに入り、携帯のワンセグ放送を使ってバラエティ番組を観ればいいのだ、と先刻の少女が一挙の解決法を提示してきたことは俺の想像での話だが、少女はなにかを嗅ぎつけたように柵から腰を上げ、軽い足取りでこちらに近寄ってきた。
「私は向こう岸の未来からやってきたの。そしてここは現在。あなたはこの道路を渡りきれば、未来にたどり着いたことになる」
 毎日の晩飯のおかずを気にして、明日の話のネタにするためにテレビ番組を録画して見直したりする規則正しい日々は、そんなふうに逸れたのだった。

 こいつはなにをいっているんだ、と俺は思う。そんなのは当たり前のことだろう=B
 俺の目的地が向こう岸にある以上、そこから来たこいつは、未来の俺が到達すべき場所から来たことになる。つまりそれは、未来に俺が立っている場所からこいつは来た≠ニいうことになる。
「だから私はあなたの過去に向かって歩いていくの。そしてまた駆け上がって未来に戻る。でもそこにあなたはいない。これは過去なの、未来なの? でもそうね、強いて言うなら……追いつくべき未来がない=Aなんてどうかしら」
 くすくす、と少女は屈託なく笑う。しかし、見ようによってはそれすらも計算に入れられたような含み笑いだった。ぎこちない、というには自然すぎて、無邪気と形容するには冷静な笑み。不思議な雰囲気を持った少女は壇上に立った女優のように滑らかに言葉を紡いでいく。
「現在が『この場所』だとしたら、私たちはここで過去にも未来にも踏み込まずにこの場にとどまっていることになる。いいえ、現在と捉えるべきは、起こりそうな予測がついている未来≠ネのかしら。それとも、すでに起こってしまった過去のことを振り返る≠アとなのかしら」
 今すぐに起こりうる未来というものは結局のところ、それを予想した段階では予測がついていてもまだ出来事は起こっていない≠フだ。すなわち、いくら予測がついても、次にこんなことが起こるということがわかっていても、それらは極限まで予想の域を出ないことになってしまう。だから出来事が起こったという過去を認め、それはすでに起こってしまった出来事として『参照』されることになる。
 『参照』とは、なにかを見られる、あとから確認ができることなのだから、起こりそうな事態を参照する、という動作はある種の矛盾が生じることになる。
 例えば、ある歌手の歌を聴いているとき、曲に合わせて歌詞を口ずさむという行動を取ることがある。
 このとき、今起こっていることは曲が流れている≠アとで、それを契機に覚えている歌詞を口ずさむ≠アとが参照するという。
 現に、はじめて聴いた曲と同時に復唱することは不可能であり、覚えた歌詞を曲と同時に頭のなかで再生することによって、口ずさむという行為が可能になる。
「現在の定義はとってもあいまいで不確かなもの。だからといって別に不都合を感じるわけでもないのだけど」
 後ろ手に手を組みながら、少女はしとやかに歩み寄り、出会った当初から一歩も動くことのない俺のすぐ脇を通り過ぎる。通り過ぎざまに長い髪からただよう、洗髪料のほのかなにおいが漂った。
 少女は動かない俺の周囲を巡回するかのようにゆっくりと回る。
「現在の定義なんて曖昧なもの。でも、過去や未来はいつでもわたしたちの後ろや前にそびえ立っている。わたしたちは未来に歩き続けるしかない。それは渡った先から道が崩れ去っていくような感覚。だからわたしたちは何かを依り代に歩みを刻んでいくの」
 そこで少女は自分の左腕の袖をめくり、腕時計をこちらに向けた。装飾は少ないが、よく洗練された小柄な時計だった。ワインレッドの色合いを含め、大人びた少女の印象をよく際立たせている。
「わたしたちがこうして話していたのは、この腕時計によれば一〇分前後のことになるわ。けれども、わたしたちは時計を見なければ時間を計ることはできなかった」
 時間とは感覚的なものだといえるのかもしれない。
 俺たちは天気や時計、自分の腹の空き具合などから「時間が経った」と感じる。それらはすべて、なんらかの外からの刺激によるものだ。感覚を刺激されて確かめられるなにか。少女の言葉にはそういった意味が含まれているのだろう。
「じゃあ先行き不明な未来はどうなってるのかしら」
 少女は歩道橋の手すりに指をかけながら、問いかけるようにこちらに小首をかしげた。間際には遠くからトラックが揺らす荷物の音が聞こえてくる。しばらく待って、特に返答を期待していないのか、落ちていく夕日を眺めながら話を続ける。
「わたしたちは未来はいずれ起こるものとして考えてる。もし未来を予想できたら予知能力者として迎えられるでしょうね。そのくらい予測できる未来は価値あることだと思われているわ。
 でも、わたしたちは何気なく未来をある程度予想して生活しているものだったりする。たとえば、石につまずいて転びそうになったとき。足に石が当たってバランスを完全に崩した時点でこの先の未来はわかっているといってもいいわ。そういうとき、わかっている未来というものを直感することができるの。この意味がわかる?」
 問いかけるような挑発的な笑みを浮かべて少女はこちらを振り返った。夕日に照らされながら浮かべたその笑みは艷美ですらあった。少女の年頃には決して釣り合わないほどに。
 少女の顔に見とれるようにして突っ立っていると、それを沈黙の意ととらえたのか、今度はあどけなさの残すような笑顔を少女は見せて嬉しそうに答えを述べた。
「つまりね、こけそうになっているとき、わたしたちは見ることができなかった未来の様を頭のなかに思い描くことができるの。それはとっても刹那的な経験だけど、未来がわかっている≠ニいう点ではまるで予知能力者のようじゃない?」
 たしかに躓いて転びそうになるとき、俺たちの未来に変わりはないだろう。あとはどうやってその未来を甘んじて受け止めるかに限る。受け身を取るなり、顔面から地上へダイブを決め込むなり、それはすべて個人の裁量に任される。だが、そのために何度も転びそうになる思いをするのは大変ごめん被るものである。
 熱を浮かべた表情の少女は、呆れ顔の俺を見て冷水を浴びせられた気分にでもなったらしい。少女は取り繕うように俺に背を向けた。
「たとえが悪かったかもね。重要なのは未来を予測できるという点だけだから」少女はそこまで言って仕切り直すように語気を強めて「……さて、さっきからわたしは未来に固執しているのだけど、ここで最初に戻って未来とはどんなふうのものだったか思い出して」と答えた。
 端的にいえば先行きのわからない時間が未来で、振り返ることができるあとの時間が過去といったはずだ。早送りの効かないビデオテープを俺は連想した。時間を早めることはできないが、過去を巻き戻して振り返ることならできる。そして、時間はゆっくりと再生されていく。
 なら、と少女は自身の頭を細い指でつつくように示し「それなら、予測できる未来というものは未来という概念を疑わないといけない、ってことにならないかしら」と切り出した。
 仮に予測できないから未来である≠ニ前提に立つのなら、それはもはや未来とは呼べない。未来と似ている、また別の時間感覚のひとつだということになるだろう。
 しかしそれなら、現在を拡張することによって≠サの感覚を得られるのではないだろうか?
 少々は長い艶のある髪を撫でるように手櫛をかけた。川のせせらぎのように、静かで、それでいてゆったりとした動作だった。
「いま、わたしたちはこうして話をしている限り一寸先の未来が見えているわ。けれども、どちらかが会話をやめれば、時間が進むことになる。そうでしょう?」
 少女は眉根を下げてにっこりと微笑みながら同意を求めた。
 俺たちは会話を続けている限り、そのすこしあとの未来も会話を同じように続けているであろうことを推測できる。予測ができるということはすなわち、現在という時間がそのまま続いていく様子を示している。
 そしてどちらか一方が会話をやめたとき、起こり得た現在はその場で断ち切られることになる。そしてまた、予測しようがない未来を抱えて街頭に繰り出すことになるだろう。
「だからわたしたちはいつまでも現在にいられることができるわけだけど。もちろん考え方によればの話だけどね」
 ところで、と少女は数歩の距離を詰めて見上げるように俺の顔をのぞき込む。その表情には悪戯を思いついた子供のような顔が見て取れた。
「じつは今晩親が出掛けちゃっててね、することもなくて困ってたんだけど。さて、あなたは現在を選びたいか、未来を選びたいか、どっちかしら?」
 そんなのは考えるまでもないことだろう、と俺は答えた。
 まぁそれが、確率的に途方もなく低い確率だとしても。昔からそうだったじゃないか。男は入手が難しいものほど手に入れたくなるもんだって。

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