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【絵のない額縁】


 そこにあるはずのものがないというだけなのに、妙に不安に駆られたことはないだろうか。
 いつも置いてあるはずの鍵がその場所にないだとか、冷蔵庫の片隅に置いていた好物のプリンがなくなっている、だとかいう事態のことである。

 まぁ後者は誰かの人為的なものによることが大きい、ということは認める。冷蔵庫は共有スペースである。そこに置いていたものについて自己主張を行うのなら、個人の所有権を顕示する他に方法はない。例えば、存在感を主張するために太マジックで自分の名前を刻みつける、という手段を用いよう。
 ただこれには少々問題がある。大人げないという点と、意地汚いという、とても肯定的と受けとることができない評価を同居人に根付かせる羽目となる。年頃の娘としてはこれはとても避けたい。曲がり角から猛スピードで突っ込んでくる自転車程度に回避したい事態である。

 前置きが長くなってしまったが、要するに印象付いたものが突如消え失せたとき、戸惑いを感じる度合いを思い浮かべていただければと思う。べつにわたしの好物への貪欲さなど覚えてくださらなくても差し支えはない。むしろ積極的に忘れていただきたい。

 というのも、わたしは現在電車に揺られているわけなのだが、乗換駅、ホームの壁に飾られていた絵に問題があったのだ。いや、絵と形容するには語弊がある。
 いつもの見慣れた景色にも多少の景観と移り変わりを表現してくれるその絵たちに文句を言うつもりもあるはずはない。わたしはべつに芸術家志望でも写真愛好家でもないのだ。難癖をつけるには否定する材料も意気地も足りない。

 ならばなぜ、そんなものに文句を言う運びとなったのか。
 答えはそこに絵も写真も飾られていなかったからだ。つまり見てくれは額縁だけの状態となっていた。
 飾られていないのは複数あるうちの一枚だけで、ほかには風車と草原の風景写真や、水彩で描かれた壺の絵などが飾られていた。もちろん価値基準はわかるはずもない。風景写真など、草原と風車というイメージだけで「あぁ、これはヨーロッパのどこかだな」という短絡的な結論を出すわたしである。現代っ子は結論を急ぎすぎていけない。

 とにかく、これはどうしたことだろう。額縁とはなにかを飾るためのものではなかったのか。
 それとも、わたしが預かり知らないあいだに現代アートという前衛芸術は、想像と空虚感を演出するまでに変貌を遂げたのだろうか。見た者の期待を外させるという、そんなのは一種の詐称行為に当たりそうだ。
 絵がなければ頭の中で思い描けばいいじゃない、などとは投げっぱなしにもほどがあるまいか。

 単純に駅員が取り替える途中だったのだろうか、それとも駅員が備え付け忘れただけのことだったのか。
 訪れた季節柄が災いしたのか、単に飾るものが見いだせなかったのか。
 たまには額縁も休ませてやろうという、畑休みにも似た発想を持った駅員がいたのかもしれない。すこし心温かい気持ちにもなってしまう。
 あの額縁は、いわれのない広告や価値のわからない絵画ばかりを飾られ、真贋の欠片もない多数の人間の衆目を浴びせることに耐えられなかったということだろうか。それを見越した駅員が気を遣って……大きなお世話である。と価値基準のわからない一般人代表としてもの申させていただく。ちなみにわたしは被害妄想の気が多少強い。

 それならもう一度あの駅に訪れることができたら、なにかしら絵が貼り替えられている可能性もある。
 しかしいかんせん、これは遠出した買い物先での帰りの話である。
 行きは乗り場が違ったので思い当たらなかった。そして次に用があるときは……自ら散財しようという気になったときである。平たく言うとお金が貯まってからだ。それは近いようで遠い未来のように思える。自分のさじ加減ひとつで左右される未来、といえばなにか壮大に聞こえるが、帰りに甘味を食べ散らかしたり、飲み会に赴いたりしているだけの話である。そこにお金があるから使うのだ。

 ところで、わたしが友人勢からよく言われるのが「話が脱線する」というところである。というわけで話を戻そう。べつに自分の立場が危うくなったから無理やりに話題を変えている訳ではない。先刻から似た真似を繰り返しているのも気のせいだ。

 そもそも額縁にはなにを飾るものだったのか。もちろん縁に収まるだけのサイズを持った絵画や写真をはめ込む方法をとるのが一般的ではある。
 古来、黄金比という描画技法があった。ひとつのキャンバスに人物の比重をどれだけ設けるか、風景、人物の配置はどういったものか、そういった比率を編み出したものである。それは絵や写真を撮る上で有効的であるのだが、そもそもキャンパスを取り払え、という考えはそこにはなかったように思う。値がゼロでは、比率をはかる以前の問題である。

 逆に考えてみよう。物事には発想の転換という息抜きも必要である。
 その額縁には絵画など必要ないのではないのだろうか、と推測を立ててみる。

 飾るものもないということはキャンバスの白紙すら必要としないということである。意味があるのならそこに紙が存在する必要はないというわけだ。
 例えば、箱の中に野球のボールが敷き詰められているとしよう。その箱の中にテニスボールがひとつだけ混じっていたら、わたしたちはそこになんらかの意義を見いだそうとするだろう。なぜ野球ボールだけではいけなかったのか。テニスボールが混じっていることに意味はあるのか。少数の異分子というものには、なんらかの特別な要素が関係していることを期待してしまう。ハズレ続きのクジが当たったときの喜びはひとしおである。

 私たちは何かが起こったとき、連続して別の何かが起こるであろうことを期待している。法則、因果関係、ある事象がまた別の事象へと繰り返されていく過程が当たり前に起こることと思っている。
 レンジに食べ物を入れたら温かくなるし、水の入ったコップを逆さにすれば水はこぼれる。
 だがある日、レンジに入れた食べ物が逆に凍り付いていたり、コップを逆さにしても水がこぼれなければどうだろう。まずもって自分の正気を疑うに違いない。時間帯が朝なら学業や仕事を休んでもう一度寝入ろうとベッドに足を運ぶことだろう。そんなことは異常であって起こりえないからだ。

 飾られることが当然と思われている額縁は自らを主張することはない。絵よりも価値がある額縁など本末転倒である。ブランド物の財布の中身は小銭だけ、という事態と同じくらいに物寂しい思いを覚える。
 しかし絵が飾られている中でひとつだけ孤立するようにコンクリートの壁面を透かして剥き出しにしていたら、わたしたちはなによりもその額縁に注意を向けるだろう。なぜ当然のことが果たされていないのか。飾るものがない飾りなどなんの存在価値があるのかと。

 もしかすると、この偶然の産物ともいえる額縁は、物事に対する認識を改めさせてくれるために存在したのかもしれない。
 わたし達は自然と自分が過ごしてきた記憶をたどって物事を判断する。小難しい漢字が並ぶ法則も過去の偉いひと(今度はカタカナが並ぶ)が実験して得られた結果だ。だから、わたし達は経験的に物事を処理するともいえる。言葉も、電車に乗ることも、過去の経験を生かしてできることだ。

 しかしそれではダメなのだ。なにかを下地にしたところで似たような考えしかできないのだと。トビがタカを生むことはなく、カエルの子はカエルである。個人的にはオタマジャクシだと思うがそういった意味ではないらしい。
 物事はもっと創造性豊かに、多面的に判断されるべきだ、とあの額縁は仰せになられているのではないだろうか。

 額面通りに物事を受け取ってはいけない、ということだ。
まぁ、額縁だけに。さて、お後はよろしかったでしょうか。

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