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黄昏の交差路<< Novel << TOP

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†Vil's Side . . .

 彼が山道を歩き始めて三十分ほどが経った。土壌も固く、道はなだらかに続いていたので苦になるほどではなかった。
 酒屋の店主から渡された地図をあてに、この辺りの分岐点を目指して黙々と歩を進めていた。そんな状況で脳内で考えているのはこの依頼についてだった。きな臭い、と彼は感じていた。

(依頼も依頼だが、あの店主の反応も気になる。だとしたら、俺のことをすでに知っているということになるが……)

 その情報の出自は十中八九見当がついている。だが、そこまでわかっていながら、この依頼を断らなかった。

(疲れたのかもな、もう)

 彼は内心で苦笑した。
 どうしても、もう気概が出ないのだった。使命感などという薄っぺらい自己肯定感などとうに朽ち果てた。いつ目的地にたどり着くとも知れない、果てしなく続く砂漠を見渡すときの絶望感と酷似した心境を彼は抱いていた。

(……もう、いいだろうか)

 なるべくあいつの名を汚さぬように立ち振る舞ったはずだった。ただ、過去にあいつがいた、その証拠を刻むために。あの誰よりも気高く、何よりも意志の強さを秘めた後ろ姿。

(俺はあいつになろうとした――)

 だが、それは所詮紛いものに過ぎなかったのだ。彼の記憶の中の男は、彼に道を示し、武を叩き込み、思想を語った。それらが熟し、実となる前にその男は物言わぬ体と成り果てた。

(だから、俺は……)

 そこまで考えたところで、物音に気づき、彼は意識を取り返した。
 魔物――? そう思ったものの、草木を分け入る様子は不規則で弱々しかった。怪訝に思いながらも、彼は音の主を見極めようとした。念を入れて腰に据えた武器へ手を添えることは忘れない。長年身についた習慣のようなものだった。

「あっ……!」

 人間の悲鳴のような声が小さく耳に入り、同時に枝木が折れるような音が鳴る。悲鳴は成人した者の声ではなく、もっと高く、小さかった。変声期すら迎えていない子供の声のようだった。
 彼は枝の折れる大きな音ともに静かになった茂みの中へゆっくりと足を踏み入れる。ところどころに落ちている枯れ枝を踏まぬように慎重に進み、音を立てぬように近づいていく。

 茂みの中を進んでいくと、背の低い木々に埋もれるようにして座り込む、小さな人影の姿を見つけた。まだあどけない顔立ちだ。身なりは貧相で、髪も短い。この上ぼろ布のようなものをまとっており、性別が判然としなかった。
 しばらくその子供の様子をうかがっていると、ようやく子供は傍らに立つ彼の姿に気づいた。いささか照準の定まらぬ目線を向けながら、不思議なものを見るような目つきで彼を見上げた。まるでそこにいないものが見えるような仕草だった。

 それから数刻の間が経過したあと、彼は黙って背を向け、その場から立ち去ろうと右足を踏み出した。しかし「あ、あの……!」と、背後から意を決したように声を震わせた引き留める声が聞こえた。 周囲の風音に掻き消されてしまうような小さな声だったが、半ば予期していた事態に、彼は茂みから慌てて出てきた子供の姿を振り返った。

「……なにか用か」

 聞きようによっては不機嫌とも取れる声だったが、枝を頭に引っかけたままの子供は意に介することはなかった。

「あの、ここはどこ……?」

 彼を見上げるようにして訊ねる子供の姿を、彼は今一度眺めた。年齢と格好のせいで判別しにくかったが、子供は十歳前後の少女らしい。不躾に自分の姿を眺める青年の視線にすこし身体を震わせながらも、問いに対する答えを求めて彼から視線を外さない。

「……山だな」

 しばらく後に彼は簡潔明瞭にそう答える。これで自分の役目は終わったといわんばかりにその場から立ち退こうとする。

「あ、ま、待って!」

 早足で進んでいた彼の背を少女が呼び止める。その背に追いつき、斜め後ろに小走りでついてくる少女の方向を彼は見ることも拒みもしなかった。

「あの、あたしの名前、ココリっていうの。あ、お兄さんの名前は……?」

 切れ切れに言葉を探しながら少女――ココリはそう問いかけた。 しかし彼は問いかけに答えることなく、不意に歩みを止め、睨むように一瞥しながら言い放った。

「……死にたくなければ黙ってついてこい」

 少女は一瞬肩を震わせてすこし立ち止まったが、また小走りで彼の斜め後ろに位置した。
 対する彼は小さなため息を人知れずついていた。面倒ごとというものはどうして列を成して重なってくるのだ、という具合に。

  * * * * * * * * * * * * * * *

 そこからさらに二〇分ほどが経過した。少女は相も変わらず彼の後ろをちょこちょことついてきており、彼からつかず離れずの距離を保っていた。

「……お前はどうしてこんな場所にいる?」

 黙々とついてくる少女の姿に、さすがに居心地の悪いものを感じ、彼は少女に問いかけた。ところが少女は彼の声に反応するも、彼の顔を見つめたまま声を発そうとしない。
 彼は不可思議に思ったが、先ほど自分が言いつけた言葉を思いだし「声を出してもいい」と少女に言い直した。少女はそれを聞いてぱっと花が咲いたように破顔した。

「えっと……あたし、なんでここにいるのかはよく、わかんない」
「わからない?」

 彼が怪訝そうな声を浴びせる。

「うん、あたし、おかあさんについてきたんだけど。……おかあさん、いなくなっちゃった」

 ココリは悲しむでもなく、淡々と自身の境遇について話す。

「はじめはいつもみたいに村にいたの。それからおかあさんが来て、山にお野菜を採りに行きましょう、って言ったの。でも、この山まで来て、はじめて来るところで、いつも来る山とは違っていて……。それから、いつの間にかおかあさんとはぐれちゃったの」
「はぐれた、か……」

 身なりからして、この子供の家は相当に貧しい家庭だったに違いない。もしかしたら食べるものにすら困窮していたのかもしれない――子供の分の食料を確保することにすら。
 はぐれた母親と再会できる、そういった気休めの言葉を投げかけることを彼はしなかった。彼は長い間慈悲とは無縁に過ごしており、そして気休めがその場をしのぐための逃げの一手に過ぎない、と思っていたからだった。

「……よく聞け。母親はお前を捨てたんだ」

 彼の言葉には温情の欠片も入る余地はなかった。

「この山は日が落ちれば肉食の魔物も徘徊する、この辺りでは危険な区域に位置するひとつだ。そんな場所に自分の子を置き去りになんて普通はしない」

 少女は目を見開いたまま、彼の目線を一身に受け止めていた。自分の頭の中で、彼に言われた言葉を咀嚼しているかのようだった。
 少女が言葉の意味を受け入れるのを彼は待った。それが年端もいかぬ子供に対して事実を告げた自分の責任だと思ったからだった。現実を認めず、ただ騒ぎ散らすだけならば、彼は少女を置いて立ち去ろうとも考えていた。

 数分も経った頃、少女は不意に立ち上がり、彼に向き直った。逡巡しながらも、強い目線は彼を見上げていた。彼は目の周りを赤くしたその顔つきを見て口の端に薄く笑みを浮かべた。
 彼はおもむろにコートの内側に手を入れて乾パンを取り出し、少女に差し出した。差し出された乾パンに事態をつかめず、きょとんとしている。

「食え。これからまだ歩く」

 彼は手近な木の根に腰を下ろし、乾パンを手の中でもてあそびながら少女に言葉を投げかけた。

「この先俺の邪魔をしないならついてきてもいい。ただし、泣き言のひとつさえ漏らしたら容赦なく置いていく。それでもいいなら身の安全だけは保証してやる」

 その言葉を聞いた瞬間、少女の顔がほころんだ。何度もうなずきを返したあと、彼のように木の根に腰を下ろし、乾パンを貪りはじめた。
 その様子を黙って見届けたあと、彼も自分の乾パンを消費しはじめた。

  * * * * * * * * * * * * * * *

 この小さな同行者は思ったより聡い子供だった。そして、年頃の子供に似合わず、辛抱強かった。邪魔をしない程度に話をすることを好み、それでも大部分は押し黙りながら後をついてきた。
 頼りのない子供が行き先々の道標としてあてにしている、そうも思えたが、彼は特に問題にしなかった。深みに入ることをなるべく避けようとしていた。

 山道を歩き続けて相当数の時間が経過した。はじめはなだらかだった道のりも今は獣道に似て、傾斜も険しくなってきている。方角はその都度確認していたものの、鬱蒼と生い茂った木々が視界を塞ぎ、日差しを遮光する。昼間に近い時間帯だというのに薄暗かった。
 彼はめっきり黙りこくってしまった少女の方角を見た。付き従う位置は変わらないものの、若干距離を詰めてきていた。それでもなけなしの気力を振り絞り、その手が彼の服の裾を掴んだりして、彼の歩行を妨げるような真似はしなかった。その点は口には出さなかったが内心彼も評価していた。

「休憩だ」

 彼はすこし拓けた平坦な場所を見つけるとそう言った。彼の言葉が聞こえた瞬間、ココリの表情が華やぐ。彼は内心で反応がわかりやすい、と少女の特徴をひとつ付け加えた。
 彼はなだらかな傾斜に倒れていた古木を踏みつけて硬さを確認し、座り込んだ。ココリは辺りを見回したが、近くに座れそうな場所は見当たらなかった。彼は視線で自らが座っている古木の隣を示し、少女はそれに気がついていそいそと座った。
 ふたりの間に会話はなかったが、仏頂面の彼はともかく、少女は表情を曇らせることはなかった。その表情に警戒心は微塵も浮かんでいなかった。

 つくづく不思議な子供だ、と彼は今日で何度目かの思いを抱く。よほど親のしつけが良かったのだろうか。子供など手荷物にしかならないと踏んでいたが、とくに邪魔立てすることもなかった。
 しかし、道程に遅れが生じているのは確かだった。この休憩も子供の体力を考えた上での彼の処置であった。できれば山道で夜を過ごす真似は避けたいと彼は考えており、これ以上の時間の浪費はあまり芳しくはない。

「いけるか」

 脇に座る少女に短く尋ねた。数分のわずかな時間の休憩にもかかわらず、少女は不平の声を漏らすことはせず、黙ってうなずきを返す。
 彼は疑問に思っていた。俺はこいつをどうしたいのか、と。今もごく自然に、隣に少女が『いる』ことを認めた上で問いかけたのだ。無意識にそこにいる、ということを認めていたことに、彼は違和感を感じた。とうに忘れていたはずの、自分の感傷的な一面が存在することに彼は苦笑した。

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